はじめに
はじめまして。渡邊勢山です。
本日は彫刻についてお話をさせていただきますが、彫刻とは「彫る」というだけではなく「素材の発見」あるいは
「素材の生育状況の考察」ということを考えながら、知識を持って取り組んでいくことを分かってもらえたらと思って
います。
運慶や快慶などの仏師は有名ですが、歴史上の人物で「仏師」といわれている人、または仏師という職業が現在なお
続いていることをご存知の方はどれくらいいらっしゃるでしょう。
今の若い方と会話をするとほとんど知られていません。仏師とはすでに消えてしまった職業だと思われているんです。
学芸員さんなど文化財に関係する方々の多くは、<仏師とは 既に鎌倉末期に滅びてしまった職業>と位地付けおられる
ようで、私どもの勢山社展などで現代の仏師の活動を見ていただくと、各自の知識とは大分違う仏師の活動に驚かれる
ようです。
観光地などに行きましても、ガイドさんたちが話すのは運慶や快慶などの偉人を始めとして、みんな過去の仏師たち
のことです。現在もまだ、仏師が存在することには触れられません。
私達仏師は日本各地の仏教史跡で絶滅種「仏師」として日々紹介されている訳ですが、実は仏師という職業は、私の
恩師でもある大佛師 松久朋琳、宗琳 両師の積極的な活動の結果、伝統的な仕事の中では脚光を浴びている分野なのです。
私も含め、憧れてこの世界に入る者も数多くおり、後継者も苦労はしていない状態なのですが、関連する手技の世界
では大変に優れた技法や知識、知恵の多くが消えかかっています。
それは人々の生活と共に変化していくのが当然な巧みの技を、変化は堕落と位置づけてしまう有識者や行政の姿勢が
大きく圧迫作用をしているように思えます。
極端な言い方ではありますが、鎌倉時代までの仏像が優れ、それ以降は堕落なんてことは絶対ありませんし、どの時代
の人も真剣にその時代の最良の技法や素材をもって依頼される方の願いを叶えようと努力しています。
仏さまになる木
日本には、樹木の種類が600種類くらいあるといわれています。その中で仏像になる木が一体どれくらいあるか
というと、素人が趣味で彫るのは別として、専門家が仏像を造る木は10種類にも満たないのではないでしょうか。
勿論これは素材的に考えた場合で、これに優先するするのは御霊木や御神木などの特別な木です。
私なりに考える「仏像に姿を変える木」に相応しい木の条件をあげてみましょう。
仏像は未来永劫の命を感じさせ、続いていくものですから形が崩れてしまっては困ります。当然、強いもので
なくてはなりません。従って「恒久性」「耐久性」それから虫に対して強い「防虫性」が要求されます。
また仏様は気高い存在であり、大事な存在であります。木の持つ品位、あるいは「美観」「美しさ」そういったもの
が重要だと考えます。 そして、仏様という存在ならきっとよい香りがすると想像されますので、「芳香性」のある木
も条件として挙げられます。
仏様は、とても大事な存在で、大切に迎えられます。従って、丁寧な仕事をして豪華に造りたい気持ちや、より大
きな仏像を造りたいという気持ちが沸くのは自然な事です。
その思いに応えるべく「加工技術」も進化しまてきます。
彫刻材を集め、より大きな彫刻材とする「寄せ木造り」考えが至れば、接着性の良さや狂いのない木の選択は重要項目
となり、必然的に10種類にも満たない樹木数となってしまうのです。
針葉樹と広葉樹
具体的に選ばれた木とはどんなものかというと、針葉樹なら圧倒的に「ヒノキ」がよく使われます。そしてよく
神社などにも使われている「カヤ」の木です。
そして広葉樹ですが、「ビャクダン」がよく用いられます。日本の木ではありませんが、香木としてよく知られて
いる木です。それから、「サクラ」「カツラ」「ケヤキ」などが選ばれます。
仏像彫刻に「適材」として使われるのは更に絞られ、基本的には6種類ぐらいとなります。これほど多くの樹木の
中で6種類ほどまで絞られてきたことからも、真剣に仏さまの宿る木を探し求めてきたことが伺えます。
広葉樹の導管と木目
針葉樹と広葉樹の一般的な分け方は、導管があるかないかです。
「導管」とは水を地面から運びあげるパイプのような細胞です。
この「導管」を持つ木が広葉樹、「導管」を持たないものが針葉樹と大別できます。
針葉樹は植物的に発生が古く、組織が単純で、一つの細胞が色々な役目をしており、骨格となる細胞も水分を上げる
「導管」の役割も、組織の大半を占める「仮導管」が担っています。
顕微鏡を覗いてみますと細かい仮導管が整然と組み合わさって並んでいるのがわかります。
広葉樹に比べ、針葉樹は幹がまっすぐに生長し、木肌は非常に細かく絹のような光沢があります。針葉樹で代表的な
「ヒノキ」は特にこの特徴が強くでています。
網の目のような細胞によりどの方向から刃物を入れても仏像がきれいに仕上がり、また彩色像の場合、その細かな
組織の中に染みこむ様に絵の具が入っていくので、色も落ちにくく、その美しさを長く保つ事ができるように感じます。
一方広葉樹は、針葉樹より植物的には進化している姿だそうで「導管」と「木繊維」と分化が進んでおり、細胞の
役割がはっきり別れています。
木繊維の間に道管が散らばっている広葉樹は、樹種によって導管の並び方が異なり、その並び方によりさまざまな
木目があらわれて私たちの目を楽しませてくれます。
仏像彫刻をする上では、その変化に富んだ木目を生かしきれない事が多く、一般的には「動」的な像の場合に消極的に
つかわれているようです。
環孔材と散孔材
広葉樹は、水を地面から運びあげるパイプ「導管」の配置の違いにより環孔材と散孔材と放射孔材などに分類されています。
環孔材 道管の分布が、年輪に沿って環状に配列している。
散孔材 道管の分布が無差別に散在している
放射孔材 道管の分布が、樹心を中心に放射状に配列している
環孔材でいうと「ケヤキ」類は穴が非常に大きい。よく見ると、肉眼でも充分に見える大きさの穴が空いているので、
仏像を造る上では、木肌が荒く見えてしまいます。剛健といいましょうか、男性的な荒々しさを表すので、お宮さんの
獅子ですとか、建築関係の彫り物にはその雄雄しさがよく合います。
ところが、仏像造りになりますと「ケヤキ」は導管の大きな穴が障害になってしまいます。なかなか緻密なものが彫れません。
見た目にもそうですが、実際に刃物を当てるときに、導管にぶつかってしまい、細かい作業ができないのです。
散孔材は年輪と年輪の間にまんべんなく導管が広がっており、針葉樹とは趣が違いますが、きめ細かい肌を特徴とする銘木が
いくつか挙げられます。代表的な材としてはビャクダンが特に有名ですし、サクラの緻密な材質を利用した加工品、彫り物は
世の中に数多く存在しています。
「ヒノキ」の歴史
日本に仏教が伝わった600年頃から仏像が入ってきました。
平安朝の700年くらいまでは、仏像には主に「クス」の木が圧倒的に用いられていました。弥勒菩薩は「クス」の木では
ありませんが、そういう例外を除いて日本の仏像のほとんどは「クス」で造られていました。後世では多少木が使い分け
られていますが、おとなしい仏像も、荒々しい仏像もみな「クス」が使われています。
「ヒノキ」はどうしたのかというと、もう少し時代が経って、木芯乾漆という仏様の芯棒として使われ始めました。
それから、だんだんと「ヒノキ」が使われ始めて、八割、九割と仏様本体を造るようになりました。その仏様の上に薄く
粘土を塗ったのが、その当時の「ヒノキ」仏像の特徴として登場してきました。
では、なぜ初めから「ヒノキ」が使われなかったのかというと、加工する技術がなかったからなのです。「ヒノキ」は
非常に緻密なきれいな木肌をしています。繊細なために刃物が精巧でないと刻むことができません。どんなに良い材料で
あろうと形が取れなくては話にはならないのです。
その点「クス」は加工がしやすく、切れない刃物でも形が造れます。力任せに彫っても、ある程度はうまくいきます。
「クス」はその時代の仏師たちの道具や技法に合った素材だったのでしょう。
当時の仏師たちも「ヒノキ」を見て、あの木を使えたらもっと良いものを造れるだろうなと考えていたと思います。
ヒノキを使うことを夢見、虎視眈々とその時期を待っていたでしょう。
「ヒノキ」の加工
ヒノキが本格的に使われ始めた時期が平安朝のころですが、「ヒノキ」使用の前にもう一段階あります。「クス」から
「ヒノキ」に移るまでの一時期に「カヤ」で造られた仏像がたくさんあります。
「ヒノキ」を横目で睨みつつ、加工のできる「カヤ」の木を使っていたのだろうと思われます。
「カヤ」の木は、表面がガラス繊維のように繊細ですので、木自体は使いやすい。切れない刃物でも彫れます。
ところが、なにぶん小さい節が多いため割れやすい性質が、彫刻材の本命になりきれなかった理由だと思います。
その後、ようやく700年代を過ぎたころから、「ヒノキ」を生かすような条件が整ってきました。
その頃、平安遷都があって、王朝が京都に移りました。それに合わせて大きな技術革命があったのではないでしょうか。
都が遷るということは、建物が建て込んでくるということです。京都にはたくさんの木が必要となり、それに伴い、彫刻の
技術も求められました。それを境に、一気に「ヒノキ」の存在が大きく扱われはじめたのでしょう。
初めは、「ヒノキ」を加工するのは非常に難しいものでしたので一本の木で胴体から頭まで彫り上げていく、一本造りの
工法が中心となっていました。それが、技術がだんだんと進化し「ヒノキ」という素材を充分に使いこなせるようになり、
色々な技法が編み出されてきました。
繰り返しますが、木の選択というのが、仏像彫刻において基本的には重要なことです。それは、どんなに技術が進歩
しても変わらないことなのです。
「ヒノキ」の切り株更新
「ヒノキ」は、木曽ヒノキがよく知られています。木曽谷といいますと険しいし、地質もよくありません。
冬は非常に寒く、凍て付くところです。ですから、「ヒノキ」が生きていくためには、芽を出すためには、お母さんの
体を利用しないと、根が着きません。伐採されたあとの株の部分、あるいは、自然に倒れた木の根の上に運良く着床
きた種のみが芽を吹くわけです。
地面に落ちた種は、芽が出ません。出たとしても過酷な環境には耐えられません。栄養が無い状態ですから。運の良い種
だけが切り株の上で芽を出します。このぐらいになるのにも約6年かかります。
そして、次の写真の大きさになるのには、18年ほどかかります。その話を聞いた山林関係の植林をしている人が、
「それは嘘だ。それでは、ご飯が食べていけない。」と言うんです。ところが、自然の環境の中で生まれ育った木というのは、
これが当たり前なのです。
木曽谷には60cm以上の雪が積もるそうです。その60cmの雪を「ヒノキ」の背丈が越えるのには、20〜30年の間、
雪を耐えて春を待ち続けなくてはなりません。こんなもやしのような苗ですから、繊維が凍りつかないのが不思議なくらい
です。その過酷さに耐えて大きくなっていく。
さらに、木曽谷は山が深く、日射がよくありません。それも木の生長を妨げている原因だと思います。
成長が遅いということは年輪の幅が狭く、緻密な木目の木に成長するということです。
一方、高温多湿の吉野の「ヒノキ」は成長が早く、年輪の層が夏冬で大きく違い、木目が均一ではありません。
この「ヒノキ」と「木曽ヒノキ」は種類が違うのかといえば、まるで一緒なのです。「吉野ヒノキ」を木曽に持ってくれば、
やはり、「木曽ヒノキ」になります。つまりは、環境の問題なのです。
生育場所による色目の違い
私が材木を探す場合、成長段階でお隣りさんだったり、ずっと兄弟で育ったような木を探します。木の質が比較的よく似て
いるので、仏像を彫る材を木取る時に、木目の並行状態だとか色目の状態をあわせやすくなるのです。
木曽は谷ごとに極端に地質が違います。砂状のところもあるし、岩状のところもあります。様々な状態がありますので、
同じ「ひのき」の種でも、全然、木の肌が違います。真っ白いものがあったり、赤い木肌があったりで、適当に木を買うこと
ができません。なるべく、近いところで育った木を買うことを考えるわけです。
上松材 |
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全体的に淡いピンク色で通直です。木質はやわらかく彫りやすい材です。
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王滝材 |
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木目が非常につみ、色が白く、非常に品のある色合いをもっています。
観音像等に最適。
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野尻材 |
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多少木目が荒く、しま(赤と白)化がありますが、品のある色合いを持っています。
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南木曽材 |
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赤みが強く木目は荒い方でヤニ分も多いのですが、独特のつやがあります。
冬目がはっきり出ます。
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藪原材 |
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色は白いのですが、多少トラ 杢、アテが強い為、暴れ物等に向く。
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根上がりの木と樹齢300年の木
これは、木曽の山中にある「根上がり」の木です。
下の空洞になっているところにお母さんの根株が残っています。
お母さん根株に着床した苗が大きくなるにつれ、下の根株が
腐っていき、独り立ちを余儀なくされた状態です。


これは、かなり大きくなったものです。細い
木が真中に3本ありますが、この木は両サイドの大きな
木がもっと生長してきますと生きていけなくなり、枯れ
てしまうでしょう。
そして、両側にある2本の木も自然のままに任せておけば
どちらかが負けてしまうことになるでしょう。それは
1000年単位の話なので、たぶんその前に、用材
として刈り取られてしまうと思います。
この木は、樹齢300年くらいで、まだ「ヒノキ」として
は、若い木です。私は仏像のために、1000年クラ
スの木を捜し求めているので「ヒノキ」の寿命から
比較すると若い方に入ります。
生活の一環としての山
木曽の「ヒノキ」というのは、天然木ということで紹介されています。日本の場合、どこの木についても言えることですが、
天然木とはその地区や山の神が、生活の一環とする山全体を守っていたと考えます。種こそ植えていない、植林こそして
いない、あるいは枝打ちなどをしていなくとも、どこかしら人工林のように人が山を守っていこう、フォローしていこうと
いった形が取られていたのではないかと思われます。
例えば、奈良の十津川の山奥に、玉置神社という山伏などが修行する場所があります。そこの入り口には、縄文杉の古い
木があるんです。2000年あるいは3000年と言われている木です。縄文杉という天然木でしかも、人間が管理し始め
たという相反する概念を抱えている存在です。
ですから、日本人にとって山というのは、決して自然そのものでなく、自分の生活の延長として捉えます。庭先の延長で
あり、神様も宿るし、仏も存在する。そして生命体である自分自身もその中に含まれています。
今、盛んに自然との共生が叫ばれています。しかし昔の人は、そう堅苦しく考えずに自分自身が自然の一部であるという
感覚、山林の中に含まれている自然の循環の一部になっている感覚が非常に強かったのではないでしょうか。ですから、
山の木々がなくなると、自分たちも生きていくことができないということを現代の我々よりはるかに強く感じていたと思います。
木と自然と人
私が山の木を使わせていただいて、常に思うことは日本における林業の厳しさです。
現地で木を扱っている人の話を伺っても、まず跡を継ぐ者がいない、収穫の見込みも立ちにくい、と厳しい話ばかりです。
一体ちゃんと将来に役立つのだろうかという疑問を持ちながら、「木」の世話をしているのが現状です。計画的な伐採量を
決め、来年、再来年、その次の年のことを常に不安を抱えながら、生活をしているのです。
木を相手にするには、当然そんな短いスパンで計ることはできません。効率を考えていたのでは計画は成り立ちません。
ですから、私が山を守るとするならば、山で生活をする人を保護することを考えます。日本の山の木で仕事をする人の仕事
を作る方法こそが、山を守る一番の方法ではないでしょうか。
里山の自然という言葉があります。里山というものは本来自然ではありません。里山というのはすべて人間が手をかけた
形態なんです。たんぼを造るために土砂を削って、養生をして、ダムを造り、水を溜めていった、創り上げた景観なのです。
それが、素晴らしい景観、自然としてもてはやされるようになったのかというと、その景色と共にその中で生きている人たち
がいるからではないかと思うのです。その自然のサイクルに人間が組み込まれ、自然と対立しながら、バランスの取れた景観
が生まれていくのだと感じます。
このバランス感覚が非常に大切なのだと感じています。今の危機状況におかれている様々な問題、「ヒノキ」の例などを
始めとして日本の問題を見つめ直さなくてはならないでしょう。山がおかしくなれば、当然麓に住む人、里に住む人の生活
が脅かされます。人と自然のバランスが崩れ、歴史上消えてしまった都市も多いわけです。
そうならないためにも今、山を守ることを、山の人を守ることを真剣に考えなくてはなりません。
「ヒノキ」の水中乾燥

これは、木曽で300年ほどの木を伐らせていただいたものです。
名古屋の河口の白島という場所、熱田神宮の近くの場所で筏を組み、水中で貯蔵しているのです。
昔は筏を組んで木曽川を下り、名古屋の白島まで運び、水中で保存するのが普通でしたが、今は私以外にこういったことを
わざわざやっている人はいないと思います。
何故水中で貯蔵するかというと木の乾燥を早めるためなのです。
「水中乾燥」といいますが、こうして時間をかけて材の油分を抜き、用材に仕上げるということをしています。
写真の木が全て私の木というわけではなく、私の木は人が乗っている手前の方にあるものです。「ヒノキ」の丸太で1m前後
のもので筏を組んで浮かべてあります。
後ろの方の用材は全部外材です。外材は20m近くありますので、陸上で保管するとお金がかかりすぎる為、船から直接海へ
降ろし、筏で組んで貯蔵しておきます。「ヒノキ」とは異なり、木の質をよくするために水の中で貯蔵しているわけではありません。この中に私の「ヒノキ」がありますが、素朴な疑問で、何故水に漬けておくと「ヒノキ」が乾くのか。
水中乾燥で乾く事は解っているのですが、「ヒノキ」が乾く理由は何故か。最初、私は筏屋さんの昔からの方法だし、材木屋
さんから聞いた話などの受け売りで人に説明していました。
木の中には油があり、その油は水に漬けることにより、水の圧力で外に押し出される。その代わりに水がその中に入り、
陸に上げたときに水なら空気乾燥するから乾燥が早まるのだと。そういう話を聞いておりました。
ところが、どうも腑に落ちないのです。
「水中乾燥」の謎
水に5〜6年漬けておいた木を製材しますと、切り口から5cmほどは濡れているのですが、そこから奥は乾いているのです。
周りの部分は濡れているのですが、木芯の部分はサラサラとしています。どう考えても水が浸入した形跡がありません。
一体どうなっているのだろうと、京大の木質関係の研究者に尋ねたり、調べたりしているのですが、これが全くわかりません。
それぞれの先生は、自分の得意分野では答えてくれます。例えば「微生物説」などがあります。微生物が「ひのき」の網の目
のような、小さなカプセル状になっている部分に入り込んでいく。そのカプセルの部分に溜まっている樹液、つまり「ヤニ」を
分解するという説です。
ところが、木材に詳しい方に言わせますと、木のカプセルの部分に微生物が入り込むのは極めて困難なことらしいのです。
カプセル状のところに液腔というのがあります。タコの吸盤のようになっているものが無数にあって、水分の調節をする弁の
役割を果たします。木が死ぬその部分がだんだんと固まってしまいます。そうなると、どんな微生物も入り込むことは不可能
らしいのです。
菌類が入ろうとしても3年程度の間に木の中心部分まで到達するとは考えにくいのです。
いろいろな分野の方が相談には乗ってくれるのですが、この謎はまだ解けません。専門家が真剣に研究すれば判明すること
だと思いますが、こういう基礎的な研究は経済の原則に則ってないので、私のところぐらいしか研究していません。
神様の采配
私のところの木には油がありません。本来でしたら、ヤニがいっぱい詰まっているのですが、空間ができています。色も
透明に近い薄いピンクの状態にまでヤニの成分が消えているのです。
昔の人たちが、筏を組んで、川に貯木していたということの中に、ヤニを取り除く意味が含まれていたと考えるのは、疑問に
思うところです。結果的にこうなったというだけで、ヤニを取ることが目的で筏を組んだのではなく、物流が優先であったと思
います。木の質のことが念頭にあったとは思えません。
木の強度は気孔がしっかりしているので、油を抜いたからといって弱くなるものではありません。組織自体が非常に緻密な
ものとして構築されているのです。ヤニが無いということは、微生物や寄生虫の餌がなくなるということで、それらが発生し
にくいということです。
こうした昔ながらの方法を取ると、木は非常に美しいものに変身し、科学では計りきれない綺麗なものになります。神様の
采配とでもいいましょうか。
それほど、良い方法なのに廃れてしまった原因は何かというと、それは、経済の一語につきます。経済的に許せば、みな良質
の木を使いたいわけですから、この方法を支援するはずなのです。
過去にない技術
平安のころは、「ニカワ」が接着剤でした。接着力は素晴らしいのですが、厚みをを持ってしまうのです。木があって、
接着のニカワ層があり、また、「ひのき」の層ができてしまう。それが、かなり厚いものですから、そのまま木地の仕上
がりでは、具合がよくありません。
現在使用しているの接着剤は、みなさんよくご存知のボンドです。「えっ、そんなの使っているの?」という声が聞こ
えてきそうなのですが、決して悪いものではありません。ボンドは木の繊維の中に深く入り込んで、マジックテープのよう
に木を縫い合わせてしまいます。
仏様の場合には、大体300年で修理を考えなければなりません。そのときに、上手に剥がれる接着剤の方が都合がよい
のです。また、彫るのには刃物を使います。
ニカワ質はガラス質とほぼ同じ堅さなので、刃物がどんどん欠けてしまいます。「ニカワ」で接着したものは木地の仕上
げがまず、できません。
その点、ボンドは、用途によって使うものを変えられますし、基本的に軟らかいものですから、接着層が厚くなりません。
非常に優れた性質を持っています。
それに、「ニカワ」は、条件が悪いと10年ほどで、駄目になることがあります。ボンドなら、これも条件によりますが、
50年程度の見込みが立ちます。
終わりに
〜永久につながる仏様
私の場合は、仏様の制作に2年かけたとき、300年ものの「ヒノキ」を使用するなら、352年かかっていると考えます。
したがって、年代というものを非常に大切に考えています。また、仏様は永久的な存在ですので、将来、未来永劫に向かって
「ヒノキ」の存在を深く捉えております。
我々が「ヒノキ」を始めとする植物から学ぶことは非常に多いと感じます。
「ヒノキ」の持つたくましさ、植物の持っている力強さ、そういったものを自分の生き方になぞらえていきたい。
「ヒノキ」を中心に考えてみると、「ヒノキ」で作られた建物が建て替えても建て替えても、「美しく」生まれ変わるように、
「ヒノキ」が厳しい環境であればあるほど「力強さ」を発揮するように、我々もそういった「美意識」を忘れずに生活できたら
と考えております。
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