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仏教の軌跡
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世界三大宗教(仏教・キリスト教・イスラム教)の一つである仏教は、今からおよそ2500年前(紀元前5〜4世紀)に、ゴータマ・シッダールタ(釈迦)の思想や言動が中心になって生まれました。 釈迦の教えは初期仏教(原始仏教)と呼ばれ、その後保守派の上座部と改革派の大衆部とに分かれました。大衆部はさらに大乗仏教へと発展し、中国や日本、チベットなど北東アジアに広まったので北方仏教とも呼ばれます。上座部はスリランカやミャンマーなど東南アジアに広まったので南方仏教とも呼ばれます。また大乗仏教の成立に際して、小乗仏教とも呼ばれるようになりました。 大乗仏教は、大勢の人間が煩悩の世界(此岸=しがん)から精神的な悟りの世界(彼岸=ひがん)に運ぶことができる大きな乗り物に例えてこう呼ばれます。これに対し小乗仏教は、ごく少数の修行に耐える力のある人間だけが救われるとして、小さな乗り物に例えられます。 日本へは、大乗仏教が中国(西晋・東晋時代〜南北朝時代)、朝鮮半島(高句麗・百済・新羅の三国時代)を通って、西暦538年(552年説もあり)に百済から伝わりました。仏教伝来当時、日本は蘇我氏と物部氏が政治的対立関係にあり、仏教をめぐっても崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏が対立しました。最終的に崇仏派の蘇我氏が勝って、仏教は日本に定着しはじめました。もし物部氏が勝っていたら、日本に仏教文化は隆盛しなかったかもしれません。仏教の日本定着に大きな役割を担ったのが聖徳太子です。聖徳太子は607年小野妹子を最初の遣隋使として派遣し、仏教文化などの日本への浸透に尽力しました。 奈良時代に入ると仏教は、国家統一のための手段として次第に国家権力の中に取り込まれていきました。 平安時代に入ると、最澄と空海の出現により日本仏教はその基礎を打ち立てることになります。最澄の開いた比叡山は、「法華経」を基盤に禅・密教など全ての仏教の基礎を学ぶ一台道場として、「日本仏教の母山」と呼ばれるように、後の日本仏教の中心的位置を占めるようになります。法然や親鸞、日蓮、道元など後の宗派の宗祖となる人物はいずれも一度は比叡山に入って天台を学びました。空海は真言密教を確立し、国家鎮護のみならず、庶民救済をも念じて全国を巡りました。空海の密教思想は後世の鎌倉新仏教の宗祖たちに多大な影響を与えました。 室町時代には禅宗が武家、貴族に受け入れられ、幕府の保護も受けて鎌倉、京都を中心に禅宗文化が隆盛しました。 戦国時代には、信長による比叡山焼打ち、高野山攻略、家康による本願寺分割など、仏教勢力はその権力に屈服し従属せざるをえませんでした。 江戸時代に入ると、檀家制度の実施(国民全員がいずれかの寺院に属す)、寺社奉行の設置(寺院統制の強化)などにより、なおいっそう仏教は活力を失い形骸化しました。 明治時代になると、仏教に対する批判、排仏思想が生まれ、明治維新を契機に神仏分離、廃仏毀釈運動が起こり、数多の寺院、仏像などが消失しました。 その後、仏教界内部の反省と、檀家制度のおかげで次第に復興し、今日に至っています。現在では全世界で約5億人の信者がいるといわれています。 |
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